29日





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 もう一つ大きな違いがあります。三三年の百科事典には「強制労働」という項目があります。これを書いた人は中立とは程遠い立場でした。国際連盟のなかで強制労働廃止を目指す人権運動に携わっている人でした。
 「強制労働」の項目は、最初に古代からの強制労働の歴史を少し書いて、次に植民地時代に入る。こういう書き方をしています。 

 未開の人々の物質的需要は小さく、貨幣経済にも慣れておらず、骨の折れる長時間労働をする習慣もなかったため、ヨーロッパから来た事業家のために働こうとはしないのが普通だった。

 ヨーロッパ人が各地で植民地を作った段階、特に一番最初の段階では、賃金労働をしようとする現地の人たちはなかなか見つからなかった。お金をあげるから八時間働け、といくら説明しても、彼らはやりたくない。あるいは、一日働いて、一日分のお金をもらい、ヨーロッパ人が作った店へ行き、もらったお金で何かを買い、もう二日目は来ない。もうお金はいらない、ということが多かった。彼らには月曜日から金曜日まで、毎日八時間も十時間も働くということは考えられない。それほどまでして買いたいものなどないから、働くのを断る。
 したがって、ほとんどの植民地において、最初のインフラストラクチャーは強制労働でできたのです。最初のヨーロッパ人が住む建物、道路、鉄道、港、すべて強制労働で作られた。
 筆者は「強制労働にはいくつかの種類がある」と書いています。一つは直接的強制労働、つまり奴隷制。あるいは一時的な奴隷制。これはたとえば鉄道ができたら解放するという奴隷制です。アフリカの鉄道を作ったのは、足とか首を鎖でつながれていた労働者です。十九世紀にできたアフリカの鉄道のほとんどはそうした強制労働によって作られました。それでものすごくたくさんの人たちが死んだ。アフリカの人たちが自分の村から強制的に連れて行かれ、八時間、十時間労働させられる。彼らは病気になって死ぬ、と書いている。とにかく、強制労働なしに植民地のインフラストラクチャーができたはずがないのです。
 二つ目には間接的強制労働もある、と書いてあります。具体的には植民地に税金制を設ける、というのが一つのやり方です。税金を払わなければならないのだけれど、その税金はブタとかニワトリや農産物ではなく、お金でなければならない。ではどうやってお金を手に入れるかというと、工場で働かないと手に入らないわけです。税金を払わなければ逮捕される。したがって何人かはその工場で働くしかない。三三年の百科事典で「強制労働」の項目を書いた人は、これを強制労働と考えています。
 もう一つ、自給自足の文化があった場合のやり方。その人たちは森林に住んでいて、欲しいものは森林のなかにだいたいある。食べ物も、薬も、建築材料も、すべてそこで手に入るから、そんなにたくさん働かない。それなら、その森林をなくせばいい。森林を完全に伐採して、コーヒーかゴムか、何かのプランテーションを作る。森林がなくなってしまえば、その人たちが生き残るためには、もうプランテーションの労働者になるしかない。それも間接的強制労働である、と彼は批判している。
 それでは、経済発展イデオロギーの文脈のなかで作られた六八年の百科事典を見るとどうでしょうか。「強制労働」の項目がなくなっている。索引を調べると「強制労働」には三つの例があることが分かる。一つはヨーロッパ中世に強制労働があった。もう一つはナチス・ドイツに強制労働があった。三つ目は、現在(当時)のソ連に強制労働がある。つまり、植民地でヨーロッパ人が強制労働を使ったという事実が、百科事典の記述からなくなってしまっているのです。
 一九六〇年代から七〇年代という、経済成長イデオロギー、発展イデオロギーがもっとも強かった時代に、私は『アメリカ近代化理論批判』をテーマに博士論文を書いて、たくさんの本や論文、記事を読みましたが、そういった文章のなかで植民地時代の強制労働の存在に触れたものを見たことがない。したがって、今もそうだと思いますが、大学院で発展経済学を学び、その専門家として博士号をとり、大学で教えている人たちの多くが、この事実を知らないのです。
 そして発展経済学、あるいは経済発展イデオロギーが代わりにどんな物語を語っているか。第三世界の人たち、南の国の人たちはヨーロッパの経済を見てそれに惚れ、みずから自分の文化を捨ててそれが欲しくなったということになっている。変えられたのではなく、みずから変えたというわけです。そういう物語を、何度も読みました。「ほら、こういうものが買えるよ」と西洋人が自分たちの経済の立派なところを見せる。すると世界中の人たちが「ああ、私たちは今まで間違っていました」と言い、自分たちの文化や経済のやり方もすべて捨て、ヨーロッパ人・アメリカ人になろうとする。そういう書き方をするものがとても多い。
 けれども歴史の事実は違います。ヨーロッパ人が来て店を開いても、ほとんどの人が見向きもしない。あるいは、一日くらい働いてこれを買おうか、という程度。朝から晩まで、一年中働いてまで欲しいものなどなかった。
 強制労働という歴史的な事実が百科事典から消えてなくなるということは、オーウェルの『一九八四年』に出てくる、歴史を作り変える話とそう変わらないでしょう。今の世界がどういう過程でできてきたかを知らないと、今の世界は何なのかということも分からない。だからこれは、すごく重要な事実だったはずです。それが、発展経済学の理論に合わないからという理由で、消えたのです。
 それくらいのパラダイム転換がこの二つの事典のあいだにはあった。
 すでに少し触れたように、トルーマンがあの演説をしてすぐに、新しい学問分野が開かれました。突然、たくさんの経済学者が「発展経済学者」になった。彼らだけでなく、社会学者も、政治学者も、「発展」という言葉を繰り返し使って、次から次へと本を書いた。
 つまり、この新しい学問分野は、いわばアメリカ政府の政策の変化によって創立されたのです。こうした学者たちは自分の学問分野が中立だとしきりに言っていたけれども、実はきわめて政治的な、政策によってできた分野なのです。
 そのために、膨大にお金がつぎ込まれた。ちょうどその頃、私はアメリカの大学にいました。学部のときも大学院のときも、カリフォルニア大学の掲示板にはこうした学問を奨励する奨学金掲示であふれていました。フォード基金とかロックフェラー基金とか、特に国防省奨学金が一番よかった。国防省奨学金の条件は、政府が決めた「戦略的に重要な言語」を一つ勉強すること。つまり、政府が学んでほしい第三世界の言語をどれか一つ学ぶこと。そして、経済発展イデオロギーを勉強する。そうすれば、三年間の生活費と学費を出してくれる。ものすごく豊かな奨学金だった。私の同僚のうちにも、自分の興味からではなく、そうしたほうがお金が入るから、専門を変えた人がいました。一つの学問分野をお金で作ったわけです。
 それと同時に、南の国から若い有能な人たちを呼び、アメリカの大学で博士まで育て、経済成長イデオロギーを吹き込んで国へ帰す。それぞれの国の「経済発展エリート」を育てた。それも意図的な国策でした。それによって、ものすごく力のあるイデオロギーになっていったわけです。
 (C.ダグラス・ラミス著 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』)