30日(金)



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 伝統的な知覚理論は一貫して「形」の論理で知覚を説明してきた。しかし「動き」が情報となるということは、「形」にではなく「変形」に意味があることを示している。知覚研究が基礎としてきた「形」とは幾何学の単位である。なぜ知覚研究は、いつまでも特定の幾何学にだけこだわる必要があるのか。知覚者が対象の変化から見ているのは「形(form)」ではなく、対象そのもの、それのリアルな「姿(shape)」である。「姿」は、形からではなく、それ自体は形をもたない「変形」から知覚されるのだ。
 重要なのは、変化しないことではなく、変化することによって、対象の不変の性質が明らかになることである。知覚にとっては、「変化という次元」こそが問題なのだ。「変化」のなかに埋め込まれている「不変」が知覚されることなのだ。形の変化によって現れることが対象の知覚にとって決定的だとすると、もはや網膜の「像」について、それにどのような形が結んでいるかとか、「像」がどのように実際の対象の形と対応しているのかについて語ることは無意味になる。「形」を放棄することは「網膜像」からの説明を放棄することでもあった。
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 眼と呼ばれる器官が環境から光を受容する方法は、大きく分けると二種類ある。多くの動物の光受容器の形状は凸状か凹状のいずれかである。凹状の眼をもっているのは脊椎動物イカやタコなどの軟体動物であり、凸状の眼は昆虫など節足動物のものである。凹凸二種の眼は、まったく異なる仕組みをもっている。凸状の眼には、人間の眼のようなレンズや網膜のような感覚面がない。したがって眼に入る光を一点に集めることも、像を結ぶこともない。像を結ばない複眼では、個眼が異なった方向を向いて、いろいろな方向からくる光の強度の差を受容する。それだけでも十分な視覚が成立している。
 もちろん凹か凸かというのは、眼を分類する一つの基準にすぎない。動く眼も動かない眼も、正面にある眼も側面にある眼も、二つの眼も単眼も、焦点を結ぶ眼も結ばない眼も、さらには網膜のように光を感覚する面を持つ眼も持たない眼もある。眼はじつに多様なのである。動物全体を見渡してみると、人間のように網膜を持ち、焦点を結ぶ「像」をつくる仕組みをもつ眼は非常に限られていることがわかる。おそらくこの眼は手の届く範囲のような、比較的近くの、きわだった特徴をよく見るという、霊長類に特徴的な行為とともに進化したのだろう。この眼だけを基準にして、視覚一般を説明する理論をつくるのは無謀である。
 これらすべての動物の眼がこの環境に「適応」している。視覚を可能にする条件は、このように多様な種類の器官が存在するということを前提にして説明されなければならない。
 (佐々木正人アフォーダンス 新しい認知の理論』岩波科学ライブラリー)
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