13日



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 ところで、このような政治闘争は、次のように言いかえることも可能である。すなわち、それは、資本主義的「世界経済」の制度や構造を修正して、特定の構成員に自動的に有利に作用するような世界市場をつくり出すように仕向ける闘争である、と。資本主義の「市場」は決して与件などではなかったし、ましては不変などではありえなかった。それはつねに再生され、修正されてゆく創造物だったのである。
 ある時点でいえば「市場」とは、次の四つの主要な制度が複雑にからみあって生じる一連の法則ないし制約のことだ、といえる。すなわち、ここでいう四つの法則とは、システムによって相互に連結させられた多数の国家、そしてこの国家と不安定で不確実な関係にある複数の「民族」――このなかには「〔一国内の少数〕民族集団」のような副次的民族集団もあれば、また完全に公認されたものも、なお承認を求めて闘争中のものもある――、さらに職業集団という外見をとり、意識の水準も多様な諸階級、そしてこの階級と微妙な関係にある世帯、つまり、多様な形態の労働に従事し、多様な収入源から収入を得る人びとを結びつける所得プールの単位、がそれである。
 こうした諸制度が織りなす星座にあっては、北極星のように固定した導きの星は存在しない。資本蓄積者がある制度が特定の形態になることを望む場合、これに対抗して「本来の」あり方などといえるものは何もない。このことは、資本蓄積者が経済的生産物の収奪に抵抗する労働者階級の闘争に譲歩する方向にむかっている場合でも、その逆の場合でも同じである。ある形態をとった制度の限界、つまり、その制度がもちうる法的・実体的な「権利」は、それが「世界経済」のどのゾーンに位置しているか、その時期が景気循環や長期変動のどの局面にあるかによって、大きく変わる。慎重に考えすぎて、この話がわかりにくくて「制度」という言葉の洪水で目がまわるというのなら、史的システムとしての資本主義においては、資本蓄積者はいっそうの資本蓄積以上のことは望んでおらず、したがってまた、労働者は自らの生存と負担の軽減以上の目的はもちえなかったという事実を想起すれば、ことの筋道ははっきりしよう。このことを想起しさえすれば、近代世界の政治史は十分に理解できるようになろう。
 (I.ウォーラーステイン 『史的システムとしての資本主義』 川北稔訳)
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 この本はもはや古典なんだろうか。1983年、僕が生まれる前年に出版された。特に驚くべきことは何も書かれていないけど、このざっくりとした語り口が好きだ。
 現在のエネルギーシフトをめぐる政治闘争も、巨大システムへの過剰依存を反省し、エネルギー自治をはじめとする住民自治の方向へと社会構造の大きな変革を進めない限り、ウォーラーステイン的な説明で片付く従来の政治闘争に終わるだろう。すなわち、いま起きているのも結局、「つねに再生され、修正されていく創造物としての市場」のルール変更闘争であり、放射能汚染リスクの軽減という「労働者の自らの生存」に益するところはあれ、「じっさいには、『デモクラシー』や『自由』を求めて『封建的なもの』や『伝統的なもの』と闘った政治闘争も、労働者の資本主義に対する闘争などでは毛頭なく、資本蓄積者たちがほかならぬ資本蓄積そのもののために行った闘争であった」ということになりかねないし、その可能性はけっこうある。