11日




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 つまり、自然もまた、あるいは、自然こそまさに、自然なものではなく、概念であり、規範であり、思い出であり、ユートピアであり、自然に対して構想されたものなのです。そして今日では以前にも増してそうなのです。自然は、自然がもはやなくなってしまった時点で、再び発見され、貴重なものとみなされます。エコロジー運動は、自然と社会との矛盾に満ちた融合というグローバルな状態に反応していきます。両方の概念は、相互にからみ合い傷つけ合って混ざり合った状態において止揚されます。そのからみ合いや傷つけ合いについてわたしたちは何のイメージも、ましてやコンセプトも持っていません。エコロジーをめぐる議論で、「自然」を、破壊された自然の規範として用いる試みは、ナチュラリストたちの抱く誤解のうえに成り立っています。規範とするような自然はもはや存在しません。実際にあるのは、そして政治的に不穏な響きをたてているのは、自然(破壊)を社会化するさまざま形式であり、自然(破壊)を象徴的に表現したものであり、文化がつくりあげた自然概念であり、自然への相対立する理解であり、その(ナショナルな)文化的伝統です。それらのものは、専門家の論争や技術的な定式化や危険の背後にあって、ヨーロッパ内部のエコロジー紛争を規定しています。それらはさらに第三世界の国々内部のエコロジー紛争をも規定しています(そしてこれからも規定していくのです)。
 しかし、自然それ自体が生態系の危機と産業システムに対する批判を根拠づけることができないのならば、一体どうしたらいいのでしょうか。この問題に対しては様々な解答が可能です。
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 つまり、「自然」と「自然破壊」は、産業によって内面化された自然において制度的に生産され、定義されるのです。自然それ自体、つまりその実在論的内容は、制度的な行為権力と形成権力とに相関しています。ここで生産と定義というのは「自然(破壊)」を物質的に「つくり出す」ということと、シンボル的に「つくり出す」ということのふたつの局面のことです。そのふたつの局面は、最終的にはグローバルな規模で網目状に結合されたさまざまな行為連関内部での、またその連関と連関の間の言説の連合を示唆しています。自然の「自然性」、その「破壊」、その「再自然主義化」の違いが、制度の内部で、個々の知識主体の対立において、どのように、そしてどのような言説上の、産業上の資源と戦略によって、つくり出され、抑圧され、標準化され、統合化されるのかというのが、将来の研究の課題です。
 世界リスク社会の理論は、自然破壊に対する問いを、「近代社会は自らつくり出した不安定性に、どのように取り組んでいくのか」という問いに変換します。そのポイントは、原則的に制御可能な決定に依拠して生み出されたリスクと、産業社会の制御への要求を、以下のようなふたつの点で減少させ、破棄させてしまった「危険」とを、峻別することにあります。第一には、リスク予測、保険の原則、事故の概念、災害対策、将来の備えなどの、産業社会とともに発達し、完成された制度や規範が機能しなくなります。そのための有用な指標があるのでしょうか。それはあるのです。評価の定まっていない産業とテクノロジーは、民間で保障されないというだけではなく、民間で保険をかける可能性がまったくなくなってしまいます。このことは核エネルギーと、遺伝子工学(その研究もまた)、さらには高いリスクのある化学生産の分野にも当てはまります。必ず保険をかけてマイカーを運転する、といったすべてのドライバーにとって当然のことが、高度産業主義における危険の必然性を前にして、全産業部門と未来のテクノロジーにとっては、気付かないうちに自明ではなくなってしまっているのです。別の言い方をしましょう。製品や技術が無害であることを主張する技術者や経営者に異議を唱える、非常に信頼のおける「テクノロジーペシミスト」がいます。保険の専門家や保険会社は、技術的な「リスクが(自称)ゼロ」であるような巨大な仕事に取り組むことを、その経済的現実主義の観点から禁じられています。つまり、世界リスク社会は、保障可能性の限界を超えて、バランスを取り、稼働しているのです。
 第二には、産業社会の決定モデルとそのあらゆる副作用のグローバル性は、ふたつの異なった段階に属しているということです。一方で、科学的、技術的、経済的推進の決定がいまだに国民国家と経営体の枠でなされているのに対し、他方では、その脅威にさらされた結果、わたしたちはみんな世界リスク社会の成員になってしまっているのです。増大した危険をめぐる産業主義においては、市民の安全と健康を保障するということは、もはや国民国家的に解決できる課題ではありません。このことは生態系の危機の重要な教訓のひとつです。エコロジカルな言説によって、「外交」の終焉、「他国の内政」の終焉、国民国家の終焉が、日常的に経験できるようになります。
 同時に差異と無関心をつくり出すという中心的戦略が、認識されるようになります。責任の所在を明らかにするということ、すなわち因果関係に基づき、責任をとるという既存の規則が、機能しなくなってしまいます。つまり、ものごとを管理したり、処理したり、判決を下したりする際に、この規則を絶えず用いていると、逆効果を招くことになるのです。というのは、危険が匿名化することによって増大するからです。別の言い方をすると、(法律、化学、行政、産業や政治における)古い型の、決定の決まり切った手順や、管理の手順、そして生産様式は、物質的な自然破壊と、象徴的な意味での規格化の両方を生み出しているということになります。両者は互いに相補い、相互に先鋭化し合います。具体的に言うならば、規則を犯すことではなく、規則そのものが種の消滅、川の消滅、海の消滅を「規格化」するのです。
 象徴的な意味での規格化と、その結果として起こる、絶え間のない物質的な危険の発生や破壊という循環が、「組織化された無責任」という概念の意味するところです。行政や政治や産業の経営や研究が、彼らの内在的な合理性基準や安全基準に照らし合わせて、何が「合理的」か、また何が「安全である」のかを取り決めます。その結果、オゾン層の破壊が進み、アレルギーが大衆の病気になります。
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 「自然破壊」ということについて語る代わりに世界リスク社会の理論においては以下のような重要なテーゼが出されます。工業生産の予期しなかった副作用が、グローバルな生態系の危機へと変貌していくという事態は、わたしたちを取り囲む世界の問題、すなわちいわゆる環境問題ではなく、産業的近代という近代の第一段階、すなわち国民国家的な段階それ自体の根本をゆるがすような制度的な危機なのです(反省的近代化)。産業社会という概念の地平においてこうした展開を見る限り、一見すると責任を取ることも、予測することも可能なように見える行為のネガティヴな副作用が(残余リスク)、そのシステムを浸食し、合理性の基盤の正当性を奪うような結果になっていることが認識されないままでしょう。世界リスク社会の概念と視点において初めて、そうした展開の政治的、文化的意味の本質が際立ち、近代という西洋モデルの反省的自己規定と新規定の必然性に目が向けられるのです。世界リスク社会の言説が語られるような段階になると、「技術的、産業的発展と共に引き起こされた危険は、制度化された基準によっては予測することも、制御することもできない」という見解が状況次第で広まっていきます。民主主義的、国民国家的、経済学的モデルなど、第一の近代のモデルの基盤に対する自己反省や、(経済や法や科学における結果の外在化といった)現行の諸制度や、その歴史的に価値がなくなった合理性の基盤の吟味を余儀なくされます。ここから、グローバルな挑戦が生まれてきます。そして、そのグローバルな挑戦によって、戦争にまで至るような世界的な規模の新しい紛争群も生じてきますが、協調や紛争の調停や合意形成という超国家的制度も考え出されていきます。
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 これは、行政と国家と経済と科学との間にあった古い「進歩への連携」に対する信頼がもはやなくなったことの結果です。産業は確かに生産性を高めますが、同時に正当性というものを危うくしてしまうからです。法規定は、もはや社会平和をもたらしません。なぜならば、法規定は「危険」によって生活に対する脅威を一般的なものにし、正当化するからです。その結果、政治と政治でないものの転倒という事態が生じます。政治が非政治的なものとなり、非政治的なものが政治的なものとなります。サブ政治の時代がやってくるのです。
 (ウルリッヒ・ベック 『世界リスク社会論』 島村賢一訳)