25日


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 経済発展に対するこのような考え方は、イデオロギーとしての側面がなかなか見えてきません。なぜかというと、これは、自由主義者保守主義者も民族主義者もファシストもナチもレーニン主義者もスターリン主義者もみんな共有していたものの考え方だからです。そのどれが経済発展を一番速く進めることができるかということでは意見が分かれていますが、経済発展が必要であるということに関して、二十世紀のこれら主要なイデオロギーのあいだに、意見の違いはなかったわけです。
 だから、経済発展イデオロギーイデオロギー性は、不透明で見えにくい。イデオロギーではなくて客観的な事実、あるいは客観的な必然性というふうに思われていたわけです。イデオロギー的な側面がなかなか見えてこないということは、逆にそれだけ、イデオロギーとして成功した、思想としての覇権を握っていたということの実証でもあります。
 経済発展は、二十世紀の一番深いところまで根を下ろしたイデオロギーです。けれども、この経済発展のイデオロギーが二十一世紀も同じ迫力で覇権を握り続けるならば、とても大きな災難になるのは間違いありません。だから、このイデオロギーはいったい何「だった」のか、ということを振り返って考えなければならないと思います。
 新しいイデオロギーが世の中に現れるとき、いつ、どこでということが、はっきり分かりにくい場合もありますが、経済発展論は例外で、世界規模のイデオロギーとして現れたその瞬間が、多くの学者によって指摘されています。
 アメリカの大統領選挙に買ったトルーマンが、一九四九年一月二〇日の就任演説で「アメリカには新しい政策がある」と発表しました。未開発の国々に対して技術的、経済的援助を行い、そして投資をして発展させる、そういう新しい政策でした。
 今この政策はあまりにも当たり前になっているから、あの瞬間が画期的だったということを思い出すのは難しいのですが、当時の経済学の論文を見ると、トルーマンが使った「underdeveloped countries 未開発の国々」という用語は、それ以前には使われていなかったことが分かります。発表された学術論文がすべて載っている雑誌記事索引というものがありますが、一九四九年の演説以前のものを見ると、「underdeveloped countries 未開発の国々」という項目は存在しない。「modernization 近代化」という項目も存在しない。ところが一九四九年一月以後、それがどんどん増える。そしていつのまにか経済学、社会学の専門用語として定着していたわけです。
 (C.ダグラス・ラミス著 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』)