23日







  私が時おり思い出すのは、毎夏、一家で出かけていた北軽井沢での出来事です。ある時期、娘は「フルフルちゃん」という小さな女の子と一緒にいるつもりでした。次男は、漫画に出て来たのじゃないかと思いますが、小柄な老人の科学者で、なにかといえば、
――わしの科学に、不可能はナーイ! という「博士」をまねていました。
  ある雨の日、私が「フルフルちゃん」と「博士」の新しい冒険の話をしました。そして森のなかで、「フルフルちゃん」が悪漢どもに出会って、身体がバラバラになるほどなぐりつけられる、という進み行きになってしまったのです。
  まだ若かった私が、心のなかに黒ぐろとしたかたまりを持っていて、そのことを考えずにはいられないような時期でもありました。それでも、すぐ「博士」が駆けつけて、
――わしの科学に、不可能はナーイ! というはずだったのでした。
  ところが、娘が泣き叫ぶように抗議し、次男もそれに声をあわせました。私は「フルフルちゃん」が「博士」に真新しい女の子に修理してもらうところまで話すことができませんでした。
  (大江健三郎 「生きる練習」 『「新しい人」の方へ』)