9日




  実際、ぼく自身の人生の問題を含め、現在の日本の若年労働者達(の一部)の無気力や見通しの甘っちょろさには、「最後には親に頼ればいい」というぎりぎりの退路への信頼には、心から嫌気がさす。吐気がする側面がどうしてもある。
  それは戦後の高度成長から消費バブルへといたる歴史の、最後の経済的な恩恵を浴びた世代の心根に刻まれた、恥ずべき特権意識と没落感なのか。ぼくたちの生存を内蔵から骨の髄までひたすこの「甘さ」だけは、これだけは甘く見ることが決してできない。(中略)
  パラサイト世代は長い間怠惰な「甘え」と投げやりな気分のぬるま湯に浸り、水膨れしている。ひきこもりもAC(アダルト・チルドレン)もリストカッターもフリーターも、いろいろ子細な事情はあるけれど、その責任だけは最後に自分で引き受ける他にない。ぼくは、自分の内部に巣食うこの最悪の「敵」―自己否定と反省の誓いを装った自己欺瞞!―と、長い人生の全体を通し、無様でも徹底抗戦し続けると誓う。
 (杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』)
 ・・・・・・・・・・

 チェルフィッチュの戯曲を最近いくつか読み返して、「エンジョイ」を書く上でのモチベーションとなったとされる『フリーターにとって「自由」とは何か』もその勢いで読んだ。自分が既に読んでいそうだけど何か理由があってスルーしていた5年くらい前の本。このザ・批判の書は息苦しい。僕は、自己批判が「先回り」の必然的帰結だと思うし、それが、「フリーター・ニート世代」(という括りがあり得るとして)を何より特徴づけるものなんじゃないかと思う。先回りしてると「エンジョイ」できない。でもその「エンジョイできない」ということが僕たちの生だったら、それだって別に認めてもいい。というか、積極的に認めていけばよい。「エンジョイ」で対象化されているのは、そういう回答だと思う。チェルフィッチュの舞台では、「エンジョイ」できない「先回り」男子を、女子がシンプルに批判するというモチーフが多くて、「ゾウガメのソニックライフ」でも、「単純にわたしは旅行に行きたい」と女子は主張する。(主張しつつ、批判する。)