8日


 あまり気軽に言えることでもないと自分で思うけど、僕は、自分ではどうしようもなく、少数派というか少数者、孤独な人、誤解される人、楽しめない人、心の弱い人、うまく世の中になじめない人、うまく与えることができない人、生産的になれない人、つまり「使えない」人、けっして十分に愛されない人、そういう人が好きで、すべての「自業自得」的視線に対して彼らを擁護したいという、これは理念では決してなく性質、性癖をもっていて、おそらくそのせいで、いろいろ大切な「正しさ」や人との関係のバランスを、若干犠牲にしているし、これからも少しずつするだろうと思う。
 昨日はチェルフィッチュの新作「ゾウガメのソニックライフ」を観てきた。あざやかな人称(役)の移動とか、繰り返しながらズレてドライブしていく会話とか、ざっくり説明しやすい社会的な背景とか、横道での笑いとか、これまでの明らかなセールスポイントをけっこうばっさり削っていて、つまり見世物として、チェルフィッチュが新聞記者とかそのへんのおっさんたちからも興味深げに観られるような売り、若者文化の表現者としての、みたいな、独特の話し方と動きの標準みたいなものを前作に引き続きさらに捨て始めていて、すごいなと思った。それは大きな自信と勇気だと思った。それにしても謎のパーティ会場、クラブでのシーンは笑った。
 会場にワタミの社長みたいな雰囲気の人がいて、それで余計思ったけど、これって楽しめない人多すぎないかな?っていう、「このテーマくだらなすぎるでしょ」ってことで大人たちみんなイライラし出すんじゃないかっていう心配も観ながらしてて、でもそういう先回りこそが不必要だってことを岡田利規はずっと書いてやってきたんだよなとも思った。