11日



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 いわば、私たちははじめから「舞台の上」に置かれているわけです。「舞台の外」になにがあるのか私たちは知りません。客席も、バックステージも、劇場の外の町並みも、都市も、大陸も、私たちには見ることができません。いくつかの書き割りで仕切られた舞台で、暗い客席を見つめながら、照明を浴びて、自分に向けられた台詞に、即興で答えてゆくこと、それがさしあたりの私たちの仕事です。
 そのとき、「舞台こそが世界のすべてである」と信じ込んで、舞台の外(街路や都市や大陸)が存在する可能性について吟味しない人間が「絶対知」を信じる人々であり、舞台の上で、「こんなのはしょせんサル芝居がねえか」と言って、ふてくされて「素」になってしまうのが「知の相対性」論者たちであるように私には思えます。
 作りものの芝居であることを知りながら、それをおおまじめに演じる喜劇役者を私たちは愛します。彼が悲劇役者と違うのは、巧緻をきわめた演技と演技のあいだに、瞬間的に素にもどって、それが「ただの芝居でしかないこと」を私たち観客に目配せで知らせる、というアクロバシーを演じる点にあります(悲劇役者は絶対に「素」にもどりません)。
 知というのは、「自省的な機能」の別名である、と私は考えています。「自省する」とは、ある絶対的に安定したクリアカットな眺望をもつ視座に立つ、という静止的な「状態」のことではなく、複数の視座を往復する「運動」だと私は思います。
 すぐれた喜劇役者は「芝居の役の人物」と「役者という職能者」と「素顔の彼自身」の少なくとも三つを同時に演じ分けます。そのめまぐるしい往還のうちに、そのつど別の視座から「彼自身」と「彼を含むシステム」を眺める「視点シフト」のスピードに私たちは魅了されるのです。
 (内田樹「知性と信仰」『大人は愉しい』所収、ちくま文庫
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 ここでは物語作品のうちに三つの記述レベルを識別するよう提案したい。すなわち、<<機能>>fonctionのレベル(機能という語は、プロップやブレモンの言う意味をもつものとする)、<<行為>>actionのレベル(行為という語は、グレマスが行為項としての登場人物について語る際の意味をもつものとする)、<<物語行為>>narrationのレベル(つまり、おおよそトドロフの<<物語行為(ディスクール)>>のレベル>>である。この三つのレベルは、段階的な組み込みという方式によって相互に関連づけられる、ということを思い出していただきたい。たとえば、ある機能は、ある行為項によって表わされる一般的行為のなかに席を占めないかぎり、意味をもたない。そしてこの〔一般的〕行為そのものも、固有のコードをもつあるディスクールにゆだねられ、物語れることによって、最終的意味を受け取るのである。
 (中略)
 物語はこうして、ひどく入り組んだ間接的、直接的諸要素の連続として姿を現わす。統辞障害は<<横の>>読みを導くが、組み込みはその上に<<縦の>>読みを重ね合わせる。潜在力のたえまない動きに似た一種の構造的<<小躍り>>が生じ、その多種多様な上下動が物語に<<緊張>>とエネルギーを与える。どの単位もその露出部と深部において認知され、こうして物語は<<進行する>>。
 (ロラン・バルト「物語の構造分析序説」『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房
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 厳密には重ならないが、一緒に読んでいたので記憶に残った類似。
 「構造的小躍り」という言葉に笑った。