15日
“この詩に出会って以来、私はいっそう、「勤勉の美徳」なる概念については、
疑いを持つようになった。「謝れ職業人」の過激さは、勤勉の自慢が有害である以上に、
勤勉の美しさまでが暴力的であるというところまで届いていることだ。
その職業が社会にとって有益であるか否かに関係なく、「職業を持つもの」は
「持たざるもの」に謝罪しなければならない、という主張。
この過激さは、果たしてどれほど理解・共感されうるだろうか。”
“このように考えてみてはどうか。すべての「職業人」は、
「好きこのんで仕事をしている」のだ、と。
これを言うのは、正直に言えば、なかなか辛い。
激しい疲労とストレスに耐えて、それでも真面目に働いている人々を、
もちろん私は尊敬する。しかし、その尊敬こそが危険なのだ。
その種の尊敬は、そのような生活スタイルがどうしても取れない人たちに対する
軽蔑を伴わずには成立しないからだ。
それゆえこの尊敬は、小声で口にされるべきものだし、まして
自らの多忙さを誇る(=愚痴る)ことは、あきらかに下品な振る舞いなのである。”
(『家族の痕跡』斉藤環著、ちくま文庫)
そのとおりだ。全く同意見で、ここまで真正面から書いている文章にやっと出会った、
と読んでて思った。
斉藤環はハードワーカーである。本人に直接聞いたことがあるけど、
診療時間を削らずに執筆時間を確保するため、朝は3時くらいに起きて、
診療開始時間まで書くということだった。
「職業人」の話について私見を付け加えるなら、ハードワーカーの大半は、
心のどこかで「損してる」と感じている、ということ。
たぶん、ハードワーク、オーバーワークは殆どの人に心の深層部分で「損」を感じさせる。
理由は分からないが、そうとしか思えない他人の言動に日々出くわす。
斉藤環の言う「軽蔑」は、その「損してる」という深層意識がもたらす
ケチ臭い何か、ケチ臭いスタイルと分かちがたく結びついている。
というか、もっとも恐ろしいのは、就労が義務ではないことを、
そしてその加害性まで理解していても、「勤勉」は僕を安心させるということだ。
「しなくてはいけないことがある」ということの魅力はどうしたって否認できない。
斉藤環もきっと同じで、その抗いがたい重力と葛藤し、その地点から、
近代の生み出した理不尽な制度である「家族」が
(現在まで無効になることなくずっと)「価値の原器」であり続けているからである、
という、この本に書かれた考えに至った。
恣意的に翻訳すれば以下のようになる。
つまり、もし「働かないこと/働けないこと」に不安を覚えるなら、
あなたは立派な近代人であり、家族主義者である、と。
人に就労を強いるもの、それは家族である。そこに個人の資質・信条は一切関係しない。