以下、久しぶりに長い引用。頭のすっきりする<総論>だと思う。電車のなかで読み始めて明晰な語りに興奮した。「行政不信に満ちた福祉志向」がパンチライン
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   はじめに

 社会保障や福祉は、一昔前の日本であれば、現役世代のサラリーマンや大学生が積極的に関心をもつトピックとは言い難かった。雇用や家族が相対的に安定していた時代には社会保障や福祉という問題は、一般的に「よいこと」ではあっても、自分たちがかかわるのはまだまだ先の話に思えた。
 ところが、時代は大きく変わってしまった。
 近年、なんとか内定を出して安定した企業に転がり込み、幸せな家庭を築けば、あとはうまくいくと思っている大学生はほとんどいない。日本経団連が2004年に行った「トップ・マネジメントのアンケート調査」(2091社対象)では、「今後も長期的雇用を中心とする」と回答した企業の割合は29%にとどまる。少数精鋭の職場はストレスに満ちたものになり、過労を原因とする労災認定が増大している。
 それでは、非正規・パートの仕事に就いて「まったり」やっていけるかといえば、正社員との待遇格差はあまりにも大きい。雇用上の立場がきわめて不安定(プレカリアス)な人々は、「プレカリアート」などと呼ばれる。働いても生活が豊かにならない、年収が200万円以下の給与所得者をワーキング・プアと呼ぶようになったが、その数は2006年の国税庁の資料では1022万人と給与所得者の4人に1人にまでなった。そのうちの7割以上は女性である。ネットカフェで寝泊まりする「ネットカフェ難民」は、2007年の厚労省の調査で把握された数だけでも5400人に及ぶ。さらには、ネットカフェの一晩1000円弱の「パック料金」を節約し、ハンバーガーショップで夜を明かす「マック難民」の増大までが言われる(雨宮[2007])。
 若い人々ばかりではない。子育て中の主婦の中には、悩みを共有しアドバイスをしてくれる仲間を求めて、地域のグループを渡り歩く人が増え、「保育ジプシー」という呼び方も聞かれる。介護保険の改革で療養型病床が削減される中、日本医師会はこれから4万人の「介護難民」が出現すると予測している。
 気がつくとこの豊かな国の中で、「プア」や「難民」等々と呼ばれる人々が増大しつつある。さまざまな「生き難さ」を抱えて立ちすくみ、働き続けること、社会とつながりを持ち続けることに困難を感じている人がとても多い。
 近年の国政選挙では、年金をはじめとした社会保障有権者の関心のトップにあがるようになり、格差問題も争点となっている。当然かもしれない。人々の直面するリスクや不安は、個人で解決するにはあまりに大きな構造的問題であり、政治を通してしか打開の道は拓かれないからである。

 いったい何が起きているのだろうか。人々は社会保障や雇用について、政府に何を求めているのか。そして、日本の政治は人々の不安や生き難さにどう応えようとしているのだろうか。
 私たちがまず気づくのは、日本の政治と社会が深刻な膠着状態に陥っている、という事実である。まず政治がジレンマから脱却できずにいる。21世紀に入ってからの数年間、小泉首相のイニシアティブの下で日本は改革ブームに沸いていた。市場原理を打ち出す改革によって、長い間社会に絡みついていた利権が払拭され、日本に活力が蘇ることを期待した人は多かった。ところが、小泉、安倍両政権による改革を経て、人々はしだいに格差の拡大や生活不安に気がつき始めた。もはや改革を叫ぶだけで人々の期待を集めることは難しくなった。だからといって、かつての利益誘導政治の復活も決して人々の望むところではない。
 こうして日本の政治は、長期的なビジョンを欠いたまま、当面の支持拡大が見込まれることに次々に手を出す、その場しのぎの政治となりつつある。
 人々はそのような政治のあり方を見て、不安をもち、また不満に思っている。しかしながら、世論もまた矛盾に満ちたものになっている。筆者らが2007年秋に行った全国世論調査の結果を紹介しておこう。日本が将来どのような社会になるべきか問うたところ、58.4%が「北欧のような福祉を重視した社会」と答えた。また、31.5%が「かつての日本のような終身雇用を重視した社会」を望み、「アメリカのような競争と効率を重視した社会」と答えたのは6.7%にとどまった(山口・宮本[2008])。
 ところが、それではそのような方向をめざすにあたって、出発点となる日本のシステムの何を改めるべきかと尋ねると、「北欧のような福祉を重視した社会」をめざすべきとした人々のうち、3割近くが「官僚の力を弱めるべき」と答えた。さらに社会保障の財源をどのように確保するべきかを尋ねると、同じく46%が「行政改革を徹底する」という方法を挙げた。あたかも、小さな政府の実現を通して北欧福祉国家に近づくことを求めているようにも見える。日本は公共支出の大きさで見ても公務員の数で見ても、すでに小さな政府なのに、である。
 あえて言えば、「行政不信に満ちた福祉志向」とでもいうべきものが世論に根強いのである。これはメディアにも共通する傾向である、ワーキングプア問題などが注目されるようになってからは、こうした問題についてメディアは同情を寄せ、支援を求める。ところが、政府予算が発表されて支出削減が進んでいないと「改革にブレーキ」などと苦言を呈するのである。
 世論やメディアのこうした傾向と政治の行き詰まりは、明らかに連関している。セーフティネットの瓦解が深刻化する一方で、きわめて根強い行政不信も膨らんで、日本の政治と社会は身動きのとれない状態に陥っているのである。

 打開の道はどこにあるのか。いかなる打開策を示すにせよ、その前提として、こうした膠着状態がなぜ、どのようにして生み出されたかを明らかにする必要がある。本書は、福祉政治という視点から戦後日本の生活保障とデモクラシーを検討し、このことを考えていこうとしている。戦後日本において、人々の生活保障はどのようなかたちで実現されたか。政府は人々に何を約束し、それをどこまでどのように実行してきたのか。
 生活保障とは社会保障と雇用保障から成るが、日本の生活保障は社会保障への支出を抑制したまま、公共事業や業界保護による仕事の分配を通して成立していた。社会保障における所得の再分配に際しては、一貫した明示的なルールを示さざるをえない。これに対して仕事の分配は、裁量的な行政と政治家の口利きによって進められ、さまざまな利権を増殖させてきた。1980年代以後、都市の新中間層からの不信が強まると、政権党は率先して行政改革を進めることを約しつつ、その実、利益誘導を続けた。
 やがてグローバル化の進展を背景に、こうした仕事の分配のしくみは機能不全に陥った。高齢化の進展ともあいまって公的なセーフティネットの必要が高まったが、その時には人々は行政への信頼を失い、収めた税が循環し人々の生活を支えるという感覚をもてなくなってしまっていた。このような経緯の中で、世論に見られる「行政不信に満ちた福祉志向」が強まったのである。
 福祉と雇用を支える政治には、アメリカのような市場志向が強い考え方であれ、スウェーデンのように再分配重視であれ、何らかの公共的な理念が不可欠である。これに対して本書は、日本の福祉政治が、人々の利害対立を何らかの理念や原則にもとづいて調整するのではなく、こうした対立と分断を利用した政権維持戦略に終始してきたことを明らかにするであろう。今日の膠着状況は、何よりも政治が生み出した事態なのであり、それゆえにその打開のためには、分断の政治からの脱却が不可欠なのである。
 (宮本太郎『福祉政治 日本の生活保障とデモクラシー』有斐閣
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