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 DVDで『パリ20区、僕たちのクラス』。そんなに期待しないで借りたのにもかかわらず、「言葉」と「教育」をめぐる問題を扱った力作で、すばらしかった。こういう映画がパルムドールを受賞するなら、カンヌ映画祭が存在する価値もまだまだあると思った。
 「パリ郊外」というと、スラム化してるとか、文化的な施設がないとか、映画ならカソヴィッツの『憎しみ』とか、近年起こった暴動などもすぐイメージされるけど、パリ20区という場所はパリ行政区内の東部にあるらしく、パリの中心部ではないが「郊外」とも呼べないような中間的な場所にあるのかな、と思った。東京で言ったら、足立区とか北区、あるいは町田みたいな地理感なのかな?(自力さんに教えてほしい)
 そこの中学に勤める若い国語教師が、移民2世3世くらいの子どもたちが多い教室で、「読み書き」もままならないような彼らとひたすら「言い合う」ことで、彼らにスラングではない「言葉」、社会に通用するための「言葉」を身につけさせようと奮闘する話。この「言い合い」がとにかく圧巻だった。ドグマみたいな、いわゆるドキュメンタリースタイルの劇映画で、国語教師を演じているのは原作を書いた小説家、生徒はすべてオーディションで選ばれた普通の子どもたちが演じている。
 内田樹が「文化資本とは何か」という文章で書いていたことだけど、世界に誇る文化大国として知られるフランスでは実は、子どもたちの非識字率がありえないくらい高い。長年の移民政策という背景もあり、「会話ができれば問題ない」という名目のもと「読み書き」がまともにできない子どもたちが大量に生み出され、階層的に固定化されているという。しかし、オフィシャルに通用する「言葉」をまともに扱えないということは、ホワイトカラーの仕事につけないという以上に、そもそも「自分」とは何かということについて考えられないということを意味する。親の家業を継ぐとか、農家を継ぐとか、自分の立場がある程度自明な環境にあるならともかく、移民の子どもたちが「自分」という存在について言葉を使って考えられない、という状況は相当シビアだ。この映画を観ていて連想したのは、大学のときにやはり自力さんの授業で知ったフランソワ・ボンという小説家で、彼は郊外へ出かけては子どもたちに「言葉」「文章」で自分を知り表現するための教室を開いている。
 イギリスやフランスと違って、日本ではこうした主題が映画などで扱われることは非常に稀だ。でも水面下では実質的な移民は増えているし、日本も近い将来同じ問題に向き合うことになるのは確実だと思う。こんど公開される『サウダーヂ』という映画(http://www.saudade-movie.com/)では、甲府が移民社会化している現実が描かれているみたいです。