15日




 **********
 ペレイラ氏が私のもとを初めて訪れたのは、一九九二年九月の晩のことだった。あのときは、まだペレイラという名前はなく、はっきりした輪郭も定まっていなかった。ぼんやりとして、つかみどころのない、ぼやけた存在だったが、本の主人公になるという意志はすでに感じられた。作者を探すひとりの登場人物だったのだ。なぜ物語る役目をほかでもないわたしに託したのかはわからない。もしかすると、そのひと月前の八月、ある暑い暑い一日に、リスボンで、わたしもある人物を訪ねていたからかもしれない。あの日のことは鮮明に覚えている。朝、地方紙を買ったわたしは、ある老記者がリスボンのサンタ・マリア病院で逝去したという記事を読んだ。遺体は病院の礼拝堂に安置され、最後の別れの訪問を受け付けるという。ここでその人の名を明かすのは控えたい。一九六〇年代終わり頃のパリで、束の間知り合った人であるとだけいっておく。かれはポルトガルから亡命しており、フランスで新聞記者をしていた。四〇年代と五〇年代にサラザール独裁政権下のポルトガルで報道記者として働くあいだ、当地の新聞に、体制に盾突く辛辣な記事を載せ、サラザール独裁をこけにすることに成功した人だ。その後、当然の成り行きで警察に睨まれ、亡命の道を選ばざるをえなくなった。ポルトガルが民主主義を取り戻した一九七四年の後に帰国したとは知っていたが、かれに再会することはなかった。もう記者の仕事は辞めて年金生活を送っていたが、どのようにして暮らしていたのかはわからない。残念ながら忘れ去られた存在だった。当時のポルトガルは、五十年間の独裁の後に民主政治に戻った国が迎えるべくして迎える、激動の時期を経験していた。若い国ポルトガルを主導するのは若い人たちだ。四〇年代の終わりに、サラザール独裁に対し毅然と異を唱えた元記者の老人のことなど、覚えている人はいなかった。
 わたしは、午後二時に出向き、亡骸を訪ねた。病院の礼拝堂には誰もいない。棺のふたは開いている。その男性はカトリック信者だった。胸の上に木製のキリスト像が置かれている。かれのそばに十分ほどいた。頑丈、というよりも肥満の老人だ。パリで知り合ったときは五十そこそこで、動きが機敏ですらりとした人だった。老後、おそらく苦労の多い生活を送ったせいで、肥満でたるんだ老人になってしまったのだろう。棺の足もとの小さな書見台に、記帳簿が開かれており、訪れた人の署名が記されていたが、わたしの知る名前はなかった。古くからの記者仲間のものだったのかもしれない。かれとともに同じ闘いを生き、今は年金生活を送る元記者たちの。
 九月に、先ほどいったとおり、今度はペレイラがわたしのもとを訪れた。その場では何と声を掛けていいのかわからなかったが、文学の登場人物の姿を借りて現れた、あのぼやけた姿は、象徴であり、隠喩なのだということは、何となく理解できた。
 (アントニオ・タブッキ 『他人まかせの自伝』 和田忠彦/花本知子訳)