22日


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 日本の高度成長を担ったのは住宅だった。住宅を一つのパッケージ商品として販売したその販売方法が直接的に日本の高度成長に繋がったのである。住宅がパッケージ商品になるという着想は、いま改めて考えても卓抜なアイデアだったと思う。住宅という私たちの生活の中心は、もともとその周辺環境や地域社会と一体のものであったはずなのである。玄関ドアの内側だけを周辺環境から切り離し、隔離して、それに値付けをして「家族専用パッケージ商品」にしてしまうというアイデアは一体どこからきたものだったのか。私たちは何故「一住宅=一家族」という、このような住み方を唯一の住み方として選択したのか。パリの二月革命にその遠い発端があったなんて考えてもみなかった(本書p.172参照)。
 「一住宅=一家族」を前提にいまの日本のシステム(制度)が構築されている。いま、「一住宅=一家族」という住み方が一方で破綻しつつあるとしたら、それはつまり日本のシステム(制度)そのものを考え直すということを意味している。いま、東京23区の平均世帯人員は二人である。「一住宅=一家族」それ自体がもはや成り立っていない。パッケージ商品としての住宅が商品価値を失いつつあるのである。どうしたらいいのか。それがこの「地域社会圏モデル」の基本テーマである。自分の住んでいる家のなかをぴかぴかに飾りたてるよりも、その外側、自分の住んでいる街がきれいである方が、友達が遊びに来たときに自慢できる。いいところに住んでいるね、と言われるような街をつくるにはどうしたらいいのか。住宅のなかよりも外側の環境が美しい方がよっぽど自慢できる、というような外側をどうしたらつくることができるのか。
 団地もニュータウンもあるいは戸建分譲住宅地も、そこを歩いているとなんだか寂しい風景なのである。あまり自慢できそうもない。住宅やマンションが街に対して閉鎖的に建てられているからである。住んでいる住宅が「パッケージ商品」だから内側に閉じるようにできている。そこに住んでいる人たちの意識が周辺よりも自分の住宅の内側に向かってしまっているのである。
 都心の再開発でも同じことが言える。敷地の内側にどれだけ大きな容積の建築をつくるか。どれだけ利潤をあげるか。そういう視点でしか建築が計画されない。建築をつくるということは、たとえそれが小さな建築であったとしても、その建築ができることで周辺環境に対して必ず何らかの影響を与えてしまうのである。つくる側は常にその責任を問われるはずなのである。にもかかわらず自分の敷地の内側だけで考えていいのか。あらかじめそこにある地域社会の固有性はデベロッパーにとって、当然行政にとっても最も重要な財産なのだという視点が完全に欠落してしまっている。
 与えられた敷地のその内側で、依頼主の要請や利益のためだけを考えることが自分たちの役割であるかのように思いこんでしまっている建築家がいかに多いか。ちょうどそれにつりあうように、建築家というのはそういうものだと思いこんでいる人たちがいかに多いか。
 (『地域社会圏モデル』 山本理顕ほか編著)
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