18日


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 信頼の危機が訪れるより前の伝統的な科学技術コミュニケーションのスタイルは、英国では、「一般市民の科学理解(PUS:Public Understanding of Science)」と呼ばれている。1985年に同国の権威ある学術組織ロイヤルソサエティが発表した同盟の報告書に由来する呼び名だ。日本では「科学技術理解増進活動」という。その一番の目的は、科学技術に対する一般の人々の興味・関心を高め、科学的な事実や基本概念、方法論についての正しい理解——「科学リテラシー」ともいう——を広めること。そうすることで、人々が科学技術に関する日常生活や社会の問題について合理的に判断したり、科学技術に肯定的な態度をもつことが期待された。
 そのスタイルは、大学や研究所、学会などによる講演会や公開講座、科学博物館などでの展示やイベント、啓蒙的な雑誌や書籍、テレビ番組、政府からの情報提供など、「知識のある者から、ない者へ」という一方的なもので、政治学的に見れば、まさにトップダウン的な「統治」のパターンが主流だ。
 遺伝子組換え作物のときもそうだったが、新しいテクノロジーに対して人々が不安になったときに行われるのは、まさにこのタイプのコミュニケーションだ。その背後には、「一般市民は科学の正しい理解が欠けており、そのために不安になったりするのだ。だから正しい理解を広めれば不安はなくなる」という考え方が隠れている。これを科学技術コミュニケーションの「欠如モデル」という。これに基づいて「御理解ください」=「安心して受け容れてください」と説得するのが伝統的なやり方だったのだ。
 ところが、このようないわば上から目線的な「御理解路線」「啓蒙・説得路線」のコミュニケーションは、信頼の危機を前にしては全く通用しなかった。
 なぜなら、このコミュニケーションは、「すでに正しいと分かっている知識」または「現時点で正しいとされている知識」をもとにしているため、BSEや遺伝子組換え作物で問題となったような「未知のリスクがあるかもしれない」という不安や、「そもそも政府や企業、これらと結びついた科学者の言うことは信用できない」という不信感の前では説得力がないからだ。それどころか、「彼らは未知のリスクの可能性を無視して、BSEと同じ過ちを繰り返す気か」という具合に、余計に不信を買ってしまいかねない。
 そして、こうした御理解・啓蒙路線からの転換として、英国の政府や科学界が選んだのが、先の参加型テクノロジーアセスメントに代表されるような、科学者、政府、産業界、一般市民らのあいだの双方向的な「対話」や、政策決定への「参加」を重視する「公共的関与(public engagement)」というスタイルだった。
 英国では議会の委員会が、この展開の必要性をアピールした二つの報告書を2000年、01年に相次いでまとめ、それ以降、公共的関与のための活動が全国的に推進されるようになった。欧州連合EU)でも2002年以降、欧州委員会の研究総局(日本の文部科学省に当たる)が、科学者たちと市民の対話促進のための「科学と社会」というプログラムを続けている。
 (平川秀幸著 『科学は誰のものか 〜社会の側から問い直す〜』)
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 去年の9月に出版されたNHK出版生活人新書。現在の日本の状況を想定して書いたとしか思えないほど、今読むとグサグサと胸にささる重要な論点が書かれてある。見方をかえれば、それほど高度資本主義=高度科学技術社会が引き起こす民主主義との軋轢はどこも一緒で、予測可能ということかもしれない。イギリス国民にとってのBSE問題が、科学技術への信頼をそこまで根本的に失わせる出来事であったことも知らなかった。BSE問題では、96年に、科学技術・科学者に対する深い不信が決定的になったという。ということは、日本はとりあえずイギリスに15年くらい遅れている。(これはただの連想だけど、サッチャーは1980年代にイギリス首相として新自由主義的な政策を断行し、小泉純一郎はその約20年後に総理大臣になった。。)日本人はまず「欠如モデル」という言葉を覚えるところから始めないといけないんじゃないか。ショックな呼び名だし・・・


 ・ECDとスチャダラの新曲 http://new.clstr.net/archives/3081862.html
 ・道との遭遇 DUB祝辞 : いとうせいこう × ダブマスターX  http://youtu.be/wWfajsFpHoA