18日




 ECDが今日YOUTUBEにアップした曲 http://www.youtube.com/watch?v=Zk2E-xKmg_Y (ECDには娘が二人、一人は乳児)
 曲としての好き嫌いは超分かれると思うけど、今このときに、こういう声をあげられる表現者を僕は他に知らない。言い表しにくいけど、ここではいま皆が囚われている巨大な何か、ルール、前提がぜんぜん問題になっていない。というか意図的に無視している。その一つが「個人的であるより社会的であれ」という命令。でも表現者には、無視しがたい命令を無視し、個人的であることを究めること以外に、真に社会的になれる方法はない。表現者は、ジャーナリストでもコメンテーターでも専門家でもない。「無視すること」が表現者の根幹にあるという点で、彼らとは真逆の存在だと肝に銘じたい。「非常時」だからこそ、一層そうなのだ。昨日の夜からちょうどECDの新刊を読んでいた。
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  僕は最近よく目にする「反貧困」というスローガンを支持しない。僕は世間に流布される勝ち組だけが幸福で負け組はひとり残らず不幸だという迷信を信じない。でっちあげられた貧困への恐怖は、人々を必要以上に働かせ、必要以上に消費させるだけだ。最低限の生活の中に幸福を求めようとする者がことごとく『蟹工船』のような過酷な環境に追いやられるわけではない。それは今も昔も変わらないと思う。貧乏人が増えて困るのは、そのために税収が減る支配する側の人間だ。「反貧困」は支配者にとってこそ都合のよい言葉なのだ。僕たちは貧困を手放すべきではない。
 『蟹工船』で描かれるのも、不幸としての貧困でしかない。労働は苦役としてしか描かれていない。しかし、そこまで追いやられる手前の世界というのもある。今もあるし、昔もあったはずだ。働くこともそこそこ楽しいと感じられ、収入は少ないけれど食べてゆくのは困らないという生活。そのギリギリの線を守ることは反革命的なのだろうか。僕は『蟹工船』のようなヒドい目に遭わなければ成功しないのが革命だというのならそんなものは望まない。ひとり残らず団結しなければ成功しないような全体主義的な革命など望まない。
  僕が望むのは、誰にも参加を強制しない、そして誰も排除することのない革命だ。そっちのほうが非現実的だろうか。
 (ECD『何にもしないで生きていらんねえ』本の雑誌社
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