13日



 (序章 民主主義と人類学) 
 イデオロギーの方は、世代から世代へと継承されるためには、実際のところ学校教育型の高度に公理化された複雑な知的習得プロセスを介す必要がある。共和制、共産主義、人種主義、反ユダヤ主義、神やカーストの存在、輪廻を学習することの方が、生殖家族という同一の基礎的細胞に属した個人の関係を律している類型化された行動を本能と模倣によって吸収することより難しい。
 実際には、家族の坩堝のなかで基礎となる価値が形づくられているために、それぞれの世代は思春期がやってくると社会空間のなかで支配的なイデオロギーを強制されたり教育されたりしなくとも再び発明することができるのである。そんな時そのイデオロギーは、当人たちの目には正当であるばかりか、なによりも自然なものと映るのである。
 平等になるように周到に同じように叱られ、同じような玩具をもらうことが常に習慣となっていたふたりの兄弟は、思春期には平等主義的な価値への揺るぎない同意を発達させることになる。そんなときその子供たちの両親は、左翼だが一度も子供たちに政治について語ろうとは思わなかったし、彼らを教化しようともしなかったのだが、一種の生理学的な奇跡によって左翼の子孫を誕生させていたことに驚嘆するのである。
 ただし、平等の唯物的、経済的ビジョンだけで満足するとしたら間違いである。玩具や叱られたことは、数限りない興奮と感動のなかで、結晶化した愛情に結びついたものである。平等な相続、平等なプレゼント、平等な懲罰は、同質で対称性の感情システムへと導き、そこでは愛情もやはり平等に両親たちによって子供たちに分け与えられる。
 成人になると、平等は財産の平等な分割によってのみ表現されるものではなく、すべての子供たちの結婚への平等な権利として示される。反対に、不平等主義原理の適用は、ある者たちだけに婚姻制度の枠組みのなかでの性生活を許すことになる。平等はしたがって経済的概念ではなく、ジャガイモの量と同様に感情領域にも適用可能な直観的な数学的観念なのだ。

 (エマニュエル・トッド著 「第三惑星―家族構造とイデオロギー・システム」 『世界の多様性』所収、荻野文隆訳)