21日



 原核生物のときの細胞はもともと死なない。真核生物になっても、ミドリムシやアメーバのようなnのハプロイド細胞は原則的に死なない。単細胞生物では、普通生殖細胞という語は使わないが、ハプロイド細胞はそれ自体が生殖細胞である。2nのディプロイド細胞を作れるようになった後で、ハプロイド細胞の性質、死なない性質を受け継いだのが生殖細胞である。生殖細胞だけが不死性を受け継いだのだ。階層をジャンプして2nになったものは、不死の拘束から逃れて変化する自由を獲得した。ハプロイド細胞は生き続けるのだから、2nの細胞は死んでも別にかまわない。それが真核生物の性の起源に呼応して起きたことである。生物はセックスすることで死ぬ能力を獲得し、複雑になったのだ。複雑な生物になるために、死すべき運命を受け容れたといってもよいかもしれない。
 なぜハプロイド細胞は死なないのに、ディプロイド細胞は死ぬのか。nのミドリムシと2nのゾウリムシの細胞の間には大きな違いはない。にもかかわらずnは死なず、2nは死ぬ。なぜ2nは死ぬのか。恐らく、「死なない」ことのほうが生物にとっては普通なのだ、もともと死なないのだから。事故や飢餓、あるいは、高温とか低温とかいう外的な理由で死ぬのは当たり前だ。しかし、コンディションがいいのに死ぬのはディプロイド細胞の特徴である。われわれ人間は、どんなにいい食べ物を食べ、どんなにいい生活をしていても、最終的には必ず死ぬ。われわれにとって「死なない」ことは、何か特別の能力のように思われるかもしれないが、生物の起源から考えると、「死ぬ運命にある」ことの方がむしろ普通ではないのだ。「死なない」ことが普通なのだ。大腸菌バクテリア、アメーバは好適な環境下にありさえすれば、原則的に死なない。
 2nの細胞が「死ぬ」のは「能力」なのだ。何か特殊なことをすることによって「死」を発明した。それにより、2nの細胞の選択の幅、能力を飛躍的に伸ばすことができた。おそらく2nのまま死ななくてもいいやり方があったはずなのだ。しかしそれでは、nのアメーバや細菌とたいして変わらないような生活しかできなかったのだろう。「死ぬ」能力を獲得することにより、細胞の能力を飛躍的に増大させた。これが性のもっているもう一つの意味なのだ。(池田清彦『オスは生きてるムダなのか』角川選書