3日


 柏木くんと東池袋あうるすぽっとで、中野成樹演出の「長短調(または眺め身近め)」の眺め席。
 ラップを遠くで観ていて、ラップにとって「うまい」は全然褒め言葉じゃないと思った。ラップでも歌でも、というか表現活動何でもそうなはずだけど、「いい」「わるい」という評価しか意味をもたない。そしてその違いを生むのは、特に舞台のパフォーマンスにおいては、どれくらいそれが深く、その人自身と分ちがたく身体化されているかだ。問題は、器用さではなくて、想像的な熱だ。身体化されると「うまい」「へた」はまったく関係なくなるし、それを自分が受け入れられるかどうかという問題になる。身体化されていないラップは聴くに堪えない。歌はもうちょっとゆるいけど、基本は一緒だと思う。人は発せられた言葉の意味内容だけを受け止めることなんて出来ない。だから安室ちゃんも宇多田ヒカル(ってラップじゃないけど)もライムスターもECDも、最初はうまくなくても今はとにかく「いい」んだし、何があろうとも続けることだけが、「いい」ものへの道だ。
 だから? みずうみがラップグループとしてそれらしく、「うまく」ラップすることには反対です。俳優たちがすでに身体化している何かを「ラップ」と称して出すべく探るべきだったんじゃないか。とことん二重構造に徹した舞台だったけど、ラップするのを演じる、って二重性は重要な何かを殺いでる。眺め席にいてみずうみを批判するのは変かもしれないけど、とにかくそれがずっと頭に浮かんでいたことだった。それとは無関係に、文章にはどうしたって愛嬌が必要だって最近思ったけど、文章における愛嬌だって書くことの「身体化」の産物だと思った。