10日



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 今から数万年前の旧石器時代に、私たちの遠い祖先は「死者を葬る」という習慣をもつことで、他の霊長類と分岐した。これは「生きている人間」と「死んでいる人間」は「違う」ということを知ったという意味ではない(動物だって「生きている動物」と「死んだ動物」は「違う」ということくらい知っている)。そうではなくて、「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。
 「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。死んだ瞬間にきれいさっぱり死者の「痕跡」が生活から消えてしまうのであれば、葬儀など誰がするであろうか。
 人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである(フランス語では「幽霊」のことをrevenantというがこれは「戻ってくる者」という意味である)。旧石器時代の墳墓にはしばしば死体の上に巨大な石を載せ、死者が土から出られないようにしたものがある。おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。
 人間の人類学的定義とは、「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。
   (内田樹「他者としての配偶者について」『街場の現代思想』所収、文春文庫)
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 私たちは今起きつつある「私の人生」という物語を「すでに読み終えた私」(つまり「ナレーションの語り手としての私」だ)を想定し、その「私の物語を読み終えた私」が今起きつつある出来事にリアリティとしての厚みや深みをそのつど賦与するという、時間の順序が狂ったかたちで生きている。「私の物語を読み終えた私」というのは、言い換えれば、「死んだ後の私」ということである。「美しいカットグラス」の美しさを構成しているのが、それが割れた瞬間に立ち会っている未来の自分が経験する喪失感であるのと同じように、私の今ここにおけるリアリティの厚みと熱を担保しているのは、「死んだ後の私」という視座なのである。
 推理小説を読んでいる読者は、プロットがどれほど謎めいていても、どれほど錯綜していても、そのことによって読む楽しみを少しも損なわれない。むしろ、プロットが複雑で、トリックが不可解であればあるほど、読むことの愉悦は高まるだろう。それと同じことが「死んだ後の私」を最遠点に想定することのできる「私」においても経験されている。今生きつつある人間関係がどれほど複雑で、どれほどものごとの現れが錯綜していても、起きつつある事件がどれほど不可解でも、「死んだ後の私」を想定しうる私にとって、それは生きる経験の愉悦を増しこそすれ、それを減殺するものではない。むしろ話が複雑になり、混乱が深まるほどに、「私という物語」を読み終えたときに立っている視座から一望俯瞰される風景の宏大さに対する期待が私たちの中では高まる。
   (同「「あとがき」、あるいは「生きることの愉しさ」について」)
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 内田樹のこういう文章を読みながら、ずっとチャーリー・カウフマンの映画を連想していた。『エターナル・サンシャイン』『脳内ニューヨーク』、カウフマンの脚本作がやってる1カットごとの飛躍のリアリティは、「私の人生をモンタージュし終えた私」によって担保されている、というふうに言い換えることができると思った。主人公を取り巻く状況、記憶が錯綜すればするほど、なおそこにポジティブな何かが残ることも(エンディング)、そこから理解できた。少し前に『エターナル・サンシャイン』を観直したとき、「この映画のカットすべてが主人公によってモンタージュされた記憶であること」に気づいてすごく驚いた。それをうまく表現できなくて、まだ誰にも言えてないし、書けてない。それは一見似て見える『メメント』的なモンタージュとは根本的に違う論理によって出来ているように思われる。映画のパラダイムの外から照射している何か(例えば「死んだ後の私」「神」)がいる、その存在を映画のモンタージュの構造によって表現すること、仄めかすこと。また、『脳内ニューヨーク』では「主人公ケイデン役の人物」として映画の物語の中に直接登場し、ケイデンより先に死ぬ。彼こそが「映画のパラダイムの外から照射している何か」である。