24日(土)



 今日の読書から長い引用。川口有美子さんとECDからたどり着いた小泉義之の著書。
 一昨日のカール・ポパーと響き合ってると勝手に思った(ポパーの念頭にあったのはマルクス主義歴史観だけど)。
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  総じてモデル化とは、現実の事象が起こったその後で、事後的に、その結果を恣意的に創作し直し、さらにその後で、再び事後的に、当の結果の事前に相当する初期設定を設えてから、そこから結果に向けてモデルを走らせる出来レースなのである。
  このことは、社会事象のモデル化においては、何を意味することになるのか。事前に、予め、アプリオリに、事象がそう変化するかのように決められていると装うこと、すなわち、結果としての事象はなるべくしてなったとするイデオロギー的粉飾を行うことを意味する。
  (中略)念頭に置くのは、ジョン・ロールズケネス・アロー、ロナルド・ドゥオーキン、ジョン・ローマーなどの理論モデルであるが、それらの異同に関して細々と学者的に詮議する暇はないので、節便のためにも市民(ブルジョア)政治経済と総称し、一纏めにしてその本質的共通部分を批判しておくことにする。これらの市民政治経済学は初期状態に関して以下のような設定を行う。
  1、人間たちには、自然的不平等、生まれながらの不平等、生来の不平等がある。 
    これは単なる運 brute fact、先天的なものの偶然的な分配である。
  2、この不平等は、能力の差異である。
  3、この能力は、精神的能力と身体的能力である。
  4、この能力は、労働において使用される。
  5、この労働は、モノを制作する活動である。
  6、人間たちは、その労働の制作物の価値量に比例して、所得を得る。
  7、人間たちは、その所得を元手に人生設計をする。
  8、人間たちは、その上で、社会的協同の基本原則を取り決める。
  市民政治経済学者は、口を揃えて、何の疑念も抱かずに、自然的不平等は所与であるとする。現実にも理論的にも所与であるとする。市民政治経済学者は、そんな所与を設定することによって、何をやりたいのか。自然的不平等(差異)は、能力の不平等であること、かつ、労働能力と稼得能力の不平等であることを認めさせて、この類の等値を不問に伏したいのである。
  (中略)そもそも市民政治経済学者は、いかにして自然的不平等を発見しているのか。市民たちは、どのようにして無力なものを発見しているのか。基本的には、教育制度と雇用制度によってである。教育の機会平等、雇用の機会平等を整備しておいたと称した上で、また、社会環境と家庭環境もそれなりに整備しておいたと称した上で、そこから脱落する者を制作=発見しては、そんな人間は、初期状態において事前に生まれながらにして無能や低能力であったということに、事後的にしているだけなのである。こんな風に、市民政治経済学は、差異の社会構築主義と差異の生得主義本質主義=遺伝的決定論を必ずセットにしている。このやり口が、そっくりそのまま1から7には刻み込まれているのだ。
  したがって、われわれとしては、先天性と後天性、事前と事後の絡み合わせ方に、警戒を怠ってはならない。断っておくが、われわれは、環境を重視するなどという寝惚けたことを言いたいのではない。素朴に言っておく。初期状態で無力な人間がいたとしよう。その初期状態では、無力な人間こそが最も能力があり最も生産に寄与すると設定しても、あるいは、生権力=生政治的に無力な人間を資源として稼ぎ出す政治経済を構想しても、あるいはまた、初めから革命を構想しても、「理論的」には構わないはずである。可能的事象の範囲を理論的にはいくらでも広く取れるはずなのだ。
  (中略)市民政治経済学においては、所得の分配の前に、能力が自然的に分配され、同時に、生産と労働と所得が分配される。事前に、何かが決定的に分配され終わっているのだ。とするなら、いかに分配のルールを調整したところで、無力な者に対するそれは、生産能力のある者からの恩恵や慈善の変形にしかならないのは自明である。地獄への道は善意で敷き詰められているとは、このようなことを言うのだ。
   (小泉義之『「負け組」の哲学』「 無力な者に(代わって)訴える」より)
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 彼の文章を読んでると、学問をやるとはこういうことだというのが痛覚を通して伝わる感じがする。
 ものすごく低いところから掘り返していく。
 注釈部の「この事後的捏造の作動の仕方は、古谷実ヒミズ』に教えられた」というのにも興味をそそられた。