18日


 昨夜は神保町ボヘミアンズ・ギルドで大竹昭子のカタリココ、ゲストにホンマタカシ
 ホンマタカシはさすがにがっしりしていて、あの太い腕でこづかれたりしたら嫌だなーと思った。
 非常に知的でストイックな感じの人だった。
 大竹昭子より、ホンマタカシの問題意識のほうがよく分かった。話も丁寧だった。以下は感想。
 写真を語ることと、写真家(とそのスタイル)を語ることは、
 なんとなく一緒だと思ったまま話を進めていくと微妙にズレてくる。
 それは文学について、テクストについて80年代くらいから散々言われたことと基本は同じで、
 写真についても当てはまるんじゃないだろうか。
 つまり作品を作家にフィードバックしたい欲望を一度は客観視したほうが良い、と。
 ホンマタカシの視線は、ホンマタカシだけの視線じゃない。
 それが写真として表象され、クレジットを見なくても「ホンマタカシだ」とすぐ分かったとしても、
 それは実際はホンマタカシのものではない。現実そのものでも、もちろんない。
 人々と対象とのあいだに宙吊りにされた、不安定なものだ。
 作家論は不安定さがない分、楽してる。
 (「こういう側面についても言わなくては」というのは不安定さとは違う気がする)
 作家論は、楽してると自然と、とても凡庸でありふれた歴史観に接近していくように思われる。
 「その時歴史は動いた」的歴史観。このおなじみの「気持ち良い歴史」は、
 過去の時間の流れに転換点、結節点を求め続ける。「挫折、そして再挑戦」…。
 二人とも曖昧な感想だった原美のエグルストン展に行きたいと思った。

 今朝はとうとうちょっとした悪夢を見る。
 まあ、でも、ちょっとした、だけど。
 この状況からの逃避として、声だけの泥棒がでてきて助け舟を出してくれる。