10日


 昨日は「新しい労働社会」(濱口 桂一郎、岩波新書)を読んだ。
 伝統的な日本の雇用が、世界標準である「ジョブ型」でなく、
 特異な形態の「メンバーシップ型」である、という序章での前提から
 「きちんと認識できてなかったけど、それを知らずには話は進まない」
 という現状分析の連続と、実現可能性を常に視野に入れた政策提言が良くて、
 さすが労働省出身のインテリ専門家、という本。
 「戦後ずっと私企業が、本来国が担うべき住宅費や教育費などの生活保障をなぜか担っていたから、
  今になって企業がその重い責任を負いきれなくなって(まあそれが普通なんだけど)、
  なんかおかしなことになってる」
 って思ってたけど、その認識が大体合っていることが分かった。
 労働組合なんて今は有名無実化してると思ってたけど、
 それを様々な労働者の利益代表機関として位置づけなおすことが鍵だと書いていて、
 ちょっと意外だった。自分のこととして考えたときに、自分の労働者としての
 利益を誰かが共感したり代表して環境をよくするよう働きかけてくれたりする、
 というリアリティがあまりピンと来ない。
 それはたぶん、(ヨーロッパ的な)同業者の間の連帯感みたいなものが殆ど無いせいで、
 情報の共有もまったくと言っていいほど無い。それだけ会社が城みたいになってるせいだ。
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 今日はECD「いるべき場所」を読み始めた。
 ECDの文章にいつも胸を打たれるのはなんで? 
 彼の文章は体裁が小説であってもエッセイとか自伝であっても、常に過去の記憶の話、
 過去の自分の行動と感情の話だ。解釈としての「情景」や「セリフ」は出てこない。
 ECDのラップを聴いていて、最近思ったのは、
 ECDのラップは呼吸がビートをつくっている、ということ。
 発するひとつの単語のなか、その連なりの中に小さな空白・隙間がいくつもあって、
 大枠のドン、ドン、っていうビートの中ではラップは少し字余り気味なのに、
 言葉ひとつひとつが自律してビートを生んでる。
 しかもそれは、「しゃっくり的」というか、喉に生理的な痙攣が起きた時みたいな
 空白のでき方で、たぶん一般的にはスラスラと饒舌に繰り出すスムースなラップが、
 巧いラップ、ビートに乗ったラップとされてるけど、そういうラッパーは、
 実は大枠のビートにしか乗っていないんだということが分かる。
 というか、ECDのバックトラックには、分かりやすいビートがあんまり無い。
 だからリリックがトラックに従属して言葉が踊らされてる感じがしない、っていうのが珍しい。
 ・・・
 帰りの電車のなかで、最近よく聴いてる、環ROYとかS.L.A.C.K.のラップを改めて聴いてみて、
 彼らの一音一音の刻み方も、「しゃっくり的」ではないけど、呼吸でビートを作っていると思った。
 ふたりともカッコいいけど、環ROYはスタッカート気味で、S.L.A.C.K.は日本語としては聴きにくい。